シジュウカラの子育て

餌を運ぶ親鳥たち(ビデオ)

五月、我が家のベランダにある鳥小屋に、シジュウカラが巣作りを始めた。リビングに面したベランダなので、無事、ひなたちが巣立つまで、近づかないことにした。遠くから隠れてカメラを向けた。

一週間くらいすると、ピーピーとヒナ鳥の鳴き声がガラス戸を通して聞こえてきた。親鳥が頻繁に餌を運ぶ。まず庭の木にとまり様子を見て、次にベランダの手すりにとまり、また様子を見る。それから巣へ、餌を運ぶ。こちらから見ているのに気がつくと、庭の木に戻りもう一度様子を見る。二羽で数分おきに餌を運ぶ。その度にピーピーと賑やかになる。
子育てってすごいなーと感激する。

そのうちに静かになり、親鳥も来なくなった。巣立ちの瞬間を見逃してしまった。残念!鳥小屋の扉を開けてみた。わらや、木の枝、葉などで作った巣の中に卵がひとつ残っていた。たったひとつだけ孵化しなかった、さくらんぼの種ほどに小さい卵がちょっとかわいそうに思えた。何よりもあんなに必死で巣を守り、餌を運び続けた親鳥が哀れに思えた。

誰から教わったわけでもないのに、巣を作り、卵を産み、温め、ヒナに餌を運ぶ。自然の力って不思議で、素晴らしい。

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リス君

ねえ、最近リス君見た?
と、近頃家族と心配していた。

毎朝、唐檜から白樺へと庭の木から木へ、まるで舞うように跳び移っていたりすを、最近見かけなくなった。

夏の間は、バルコニーで朝食していたけれど、すっかり涼しくなり、家の中で食事するようになったから見かけないのかな?
隣の庭に引っ越しちゃったのかな?

今朝起きて、いつものように窓から外をのぞいた。
リス君だ!あわててカメラをとり、シャッターを切った。
いつもと違って木の上ではなく、落ち葉の散る芝の上で何かを探していた。

夫がリス君のために庭にまいておいたヘーゼルナッツの実をみつけたのだろうか。
それとも早くも落ちた松ぼっくりをみつけたのだろうか。

何故か今日は特別良い日になるような気がした。

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多摩湖自転車道

多摩湖自転車道を走った。

夏の暑い日、西日に向かって。
私の大好きな自転車で、私の大好きな太陽に向かって!

武蔵野市関前のビルに囲まれた大通り、五日市街道。
車、車の中から、急にこの自転車道が始まる。
まさに一瞬にして景色が変わる。                      

いかにも田園風なのどかな樹々、花々に囲まれた静かな自転車道。

散歩する人、ジョギングする人、そして勿論サイクリングする人。ベンチに座って談笑する人。犬の散歩をする人。

サングラスをかけてもまぶしすぎて、時々何も見えなくなるほどの強い陽射しの中、黙々と自転車をこぐ。

途中民家や公園、駅、大きな集団住宅、小平ふるさと村などを見ながら一時間あまり。
やっとめざす多摩湖(村山下貯水池)に着いた時は、もう顔に当たる風邪が涼しく感じられる時間になっていた。

ひとやすみして、湖畔を少し歩き、帰路に向かった。       

同じ道を引き返す。ライトをつけて。
またしても黙々と一時間あまりペダルをこぐ。

薄暗い自転車道が終わると、あっという間に、五日市街道の、車、騒音、照明に呑み込まれた気がした。

疲れた。でも限りなく嬉しく、幸福な気持ちだった。

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私だけの森

移り住んだ家には私だけの森があった。            

19年近くも住んだ家をあとに、新しい家に移るのは
勇気のいる事だった。
別に越さなければならない理由があったわけでもない。
親しい隣人たちからも遠くなる。
よく自転車で通ったあの森からも遠くなる。

冬の寒いある日、遂に新しい家に引っ越した。
最初の朝、寝室の丸窓からのぞくと、そこには
私だけの小さな森があった。
一面真っ白な雪景色なのに、そこだけ樹々に
守られて雪がなかった。
そしてそこに朝日が差し、なんとも
美しい絵を私に見せてくれた。               

私だけの、秘密の森、
引っ越して来て良かったと思った最初の瞬間だった。

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六月の森

今日は夏至。
北国の夏の一日は長く、十時過ぎても、まだ明るい。

蛍を見に森へ行った。
今日はめずらしく自転車ではなく歩いて出かけた。その方がこの特別の夜の雰囲気が味わえる気がしたから。
一年で一番長い一日は終わりかけていたけれど、今年一番短い夜はまだ始まっていなかった。
森の中もまだ薄明るく鳥たちが競いあうようにさえずっていた。

ア、いた。蛍だ。急いでシャッターを切るがやはりうまく撮れない。
もう一枚、ああだめ。今度はいいかな、やっぱり撮れないと、夢中で写真を撮っているうちに、気がついてみると、いつのまにかおとぎの国に迷い込んだような気がした。
知らないうちに暗くなり、鳥たちの声も聞こえなくなり、シーンとした暗い森に、何百、否、何千という蛍が飛び交い、やわらかい光を放ち、信じられないくらい神秘的な、不思議な気持ちになった。
息をとめて、目をみはり、しっかりこの光景を心の中に閉じ込めよう。写真には取れないのだから。

メルヘンのような世界をあとにするのが心残りで、ふりかえりふりかえりながら森を出た。

空には蛍の代りに、星が輝いていた。

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朝、よろい戸の隙間から入るやわらかい、陽射しで目がさめた。
春だ、春の陽射しだ!
鳥たちもにぎやかにさえずっている。
そう言えば、先週桜が咲いていた。木蓮も、たんぽぽも・・・・・
水仙も、クロッカスももうとっくに咲いている。
でも、私は、春だと気づかなかった。
春分の日も過ぎているし、夏時間だって始まったのに・・・・・

目も、心も、遠い祖国の、私の大好きな太陽の国の、悲しい、恐ろしい、ニュースばかり。昨年は、私もそこで桜に見とれていたあの国にも、まちがいなく、春は来ているだろう。昨年私が見とれたあの桜は今年もまた、咲き乱れているだろう。

神様、太陽の国に、明るい、穏やかな春の陽射しを与えて下さい! 太陽の国の人々に、明るい、穏やかな春の日々を与えて下さい!

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十二月の森

師走と聞くと誰もがあわただしさを想像する。でも・・・・・

深閑という言葉がある。これこそこの国の十二月の森にぴったりの表現だ。空気の音さえ聞こえてくるような静けさだ。

降誕節の、ある日曜の午後、友人たちと森へ行った。いつもならもう暗くなる時間なのに、雪の白さがあたりをほんのりと明るくしている。凍りつくような寒さで誰にも行き会わない。この寒さの中、こんな時間に森を散歩する人はいないのだろう。みんな暖かい部屋の中で、家族や友人たちと暖炉を囲んでこの時期特有のお菓子を食べながらおしゃべりしているのだろう。学生時代私はひとりで暮らしていた。十二月は家族がそばにいない寂しさを実感する月だった。今家族にも友人にも恵まれ、このすみきった空気の中、皆でサクサクと音をたて、黙々と歩く。何も言わなくても心が通じ合うという思いが幸せにしてくれる。

冬眠しない動物や鳥はどこにいるのだろうか。家族や友人と一緒にいてほしい。十二月だけは!

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生命 いのち

リアが死んだ。死んでしまった。朝起きたら、まるで眠っているようにケージに横たわっていた。リアはモルモット、7才だった。
我が家では娘がうさぎを飼っていた。活発で好奇心旺盛、ちょっと気位の高いノラは、えさをあげてもそんなに欲しそうなそぶりはみせないで気取っていた。
数年後、息子がモルモットを欲しがった。最初は別々のケージにいたけれど、しばらくして一緒にしてみるとすぐに仲良くなり、ノラの背中に小さいリアがまるでおんぶするように寝るようになった。
去年の夏、ノラが死んだ。11才だった。人間だったら90才位、充分長生きしたけれど、ノラの好きだったにんじんの葉、たんぽぽや赤つめ草を見るたびに悲しくなった。大きなケージの中で、小さなリアが何か頼りなく見えた。リアが寂しくないようにと、生まれたばかりのモルモットが2匹仲間に加わった。ケージも二階建てのデラックスのを造った。夏は庭、冬は家の中といたれりつくせりだった。若い2匹はすばしこいけれど臆病で、リアと対照的だった。リアは人懐こく、3つも腫瘍があったのにもかかわらず、最後の日まで食欲旺盛、小さい身体全体で生きている喜び、幸せを表現しているような、明るい性格だった。
一週間の休暇に発とうとした朝、リアは死んだ。驚いてあわてふためいたり、悲しくて泣いたりして、もう少しで飛行機に乗り遅れるところだった。旅先でもリアが思い出されて毎晩枕をぬらした。たった15cm位の小さな身体で、こんなにも大きな喜びを与えてくれたリア、心の中にぽっかりと大きな穴があいてしまって、私自身驚いている。私ばかりではない。みんなに愛され、みんなに喜びを与えてくれたリア、いなくなってもその悲しみの大きさによって、生命の大切さを改めて考えさせてくれた。
旅先で、子供たちから電話で、リアを庭のノラの墓のとなりに埋めたと聞いた。リア良かったね。またノラの背中におんぶして寝れるね。

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九月の森

黄金の秋という表現がこの国にはある。
そんなある日、私は森へと急いだ。
何故いつもこんなに急ぐのだろう。
何故いつもこんなに心がおどるのだろう。
今日は何に会えるかな、今日の森はどんな顔を見せてくれるかな、と思うと
坂道なのにひとりでに自転車をこぐ足に力が入る。

トウモロコシ畑を越えると森の入り口、
何故こんなにわくわくするのだろう。
何故こんなにどきどきするのだろう。
鹿がいるかな、野うさぎに行き会えるかな、りすはどうしているかな?

太陽の国の森ならまだせみの声が降るように聞こえるこの時期に、
この国の森の中はシーンとしずまりかえっている。
春には、あんなに競いあって、歌っていた鳥たちも、
今ではもう雄が雌をよぶ事も、子育てのために雄を追い出し
縄張りを主張する必要もなくなり、静寂そのもの。

時々聞こえる、さわさわという葉ずれの音。やわらかい木漏れ日。
足元にはシダが生い茂り、まだ青いどんぐりの実がいくつか落ちている。

結局今日は、何にも行き会えなかった。
乗馬する人、犬の散歩をする人意外は。

帰り道にいつものようにのんびりと草を食む牛、馬やポニーたち、
すずなりに実をつけたりんごの木が、太陽の光を思う存分に浴びて輝いていた。

秋とはいってもまだ八時頃まで明るい。
夕方の陽ざしは、やわらかいけれど生き生きとしている。
そんな空に気球がひとつ浮かんでいた。

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干草

九月最初の日曜日―
明るい日差しの中、自転車で森へと急ぐ。

突然広がる秋の景色。
刈り入れのすんだ干草が円筒形に圧縮され、太陽の光を浴びている。
長い厳しい冬へのそなえがもう始まっている。
夏の休暇を太陽の国で過ごす私は、毎年この光景にとまどう。
この国の人にとって干草は夏の絵だろう。まだ夏だから干草が作れるのだから。

干草は、その色をもって私に言う。夏ははもう過ぎた季節だと。
語りかけるのではなく、断言するのだ。
夏はもう終わったのだと!
だから私はとまどう―

まだこんなに陽が輝いているのに。
夏の間にしたかった事がまだあれもこれも残っているのに。

急いで私も干草を作ろう。
農民は干草をサイロに蓄える。
私はそれを心の奥にひそませよう。

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